19世紀東京最大の塔
浅草凌雲閣とは【ウィキペディアより】
凌雲閣は、写真家で東京市議会議員であった江崎礼二の発案で、東京における高層建築物の先駆けとして建築され、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。
建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトン(バートン)は設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。
凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木や北原白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12~3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。
ちなみに戦後、浅草・田原町交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」という、森下仁丹の広告塔が存在し、こちらもランドマークとして人々に親しまれていたが、これも1986年に老朽化によって解体された(現在はコンビニエンスストアのam/pmが立地)。